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■■■ 五章 暗雲侵食 [ きみのたたかいのうた ]
ナルトの知るカカシは、風に揺れる柳のように何事も受け流すイメージであった。 飄々とした態度は壁などないように見せて、その実一定ラインより近づくことを許さない。ぬるぬると鰻のようにかわす、とは七班結成当初、自己紹介しているようにみせて名前しか教えてくれなかった事実を後でサクラが詰った言葉だ。 カカシの過去を、ナルトはよく知らない。 四代目が師であったこと、大切な人を次々と亡くしたこと。ふとした話題の狭間で、独白のように紡がれた記憶だけがナルトの持っているものだ。深くまで踏み込み聞くことは憚られた。 最初から懐に入れなければ喪失の痛みは軽く済む。 失いたくないから、近づけさせない。 それを臆病だと、誰が責められる。 幹に刻み込まれた傷は年月でも癒せないものだ。ナルトはよく知っている。ただ持ち前の負けん気と、立ち止まれば歩き出せないような気がしていたから、がむしゃらに歩いていただけだ。 そのカカシがナルトに、内側の一番やわらかいところまで許したのだから、好いてくれていることだけは疑う余地もなかった。 余程のことがない限り内心を表面に出さない、まさしく柳のような鰻のような人であるから、想いを通じ合わせたあと、三年里を、カカシの傍を離れると告げた時も、頑張ってきなさいと微笑まれて終わりだったし、帰還後もお帰りと抱き締められただけだった。 それがカカシの普通であったし、人との距離が掴みきれないナルトにとって、少しずつ埋めてゆくべき狭間なのだと思っていた。 未来に飛ばされてから数えて五日目である。 カカシは片時も、ナルトを離そうとはしなかった。 いとおしいという感情を隠そうともせず、藍色の目を柔らかく細めて傍らにいられると、慣れていないナルトの心臓はばくばくと鳴る。 上気する顔を鎮めるのに躍起になり、また跳ね上がる鼓動に翻弄される。 だがカカシに翻弄されながらも、時折覗くひどく狂気じみた光が、ナルトの不安をじわじわと増大させていった。 任務のとき必ず影分身を残してゆくのも、心配と、一応監視じみたことだと思えば納得できた。だがナルトがカカシの傍らを断りなく離れようとすることを、カカシは決して許さなかった。 その時だけナルトを射竦める眼光は、日に日に険しさを増してゆく。 かと思えば、ナルトを腕の中に閉じ込めたまま、焦点の合わない瞳で遠くをぼんやりと見つめていたりする。 カカシの口ぶりから、未来のナルトとはしばらく会っていないのだろう。 だから寂しいと思ってくれていたのだ、と最初は思っていた。思おうとしていた。それは確かに必要とされている証のようで、嬉しくさえあった。 だが。幾つ、離れた時間を数えたにしても。 カカシらしい、らしくない、を通り越して、下手をすれば異常である。 寂しかった、では済まされないのではないか。ナルトはそう思い始めていた。 何が、ある────あったのだろう。 未来の情報を、最低限以上ナルトは知らないようにしてきた。またカカシも語ろうとはしなかった。 サスケを無事取り戻せたのか、里で起こっているごたごたとは何なのか。 訊きたいことなら幾らでもあり、しかしナルトは口を噤んでいた。 水を向けることさえ避けてきた。 時間と生命を操ることは、禁忌などあってないに等しい忍ですら、触れることさえ躊躇う領域だ。 四代目の術も、元来空間を目的とした術だったという。四次元的に空間を縮めて飛ぶ際、思わぬ術の効果として、時間までも飛び越えてしまうことがあった────と。 時間の理論をナルトは詳しくは知らなかったし理解も出来なかったが、未来というのは現在から続くものだ、ということは漠然と悟っていた。 すなわち積み重ねでありある種の結果であり流動するものである。 一筋、違う道を行っただけでも未来は変わるかもしれない。だがよくなるか悪くなるかは選べない。仮によくなったとしてもその裏で、何かが取り返しのつかないことになるかもしれない。 全てを予測し見通せるなら、人は手探りで生きたりはしない。 多分、そういうことなのだ。 本能の警告に従うなら、知るべきではない。 だけど、と思う。 目を閉じる。 暗闇に包まれる。 カカシは任務に行った。 影分身は本を読んでいる。その意識がナルトに集中しているだろうことは分かっている。 一挙一動を焼き付けるように、カカシはナルトを追っている。 それほどまでにカカシを突き動かすものが何なのか────やはりナルトは知らなければならないと思うのだ。 目を開ける。 リビングには曇り空から、弱弱しい光が差し込んでいた。 微かに、埃が部屋の隅に白く光っている。 冷蔵庫の有様からして、寝る為だけに家に帰っているのだろう。だがカカシは綺麗好きで、埃が積もっているところなど見たこともなかった。 いつも腰掛けてイチャパラを読んでいたソファでさえ、埃を被っていた。台所のテーブル、椅子。シンクは長らく使用した形跡がなく、本に溢れていたカカシの部屋はホテルのように素っ気無くなっていた。 ナルトが寝てしまってからある程度取り繕ったのだろう、今はそうでもないが。 生活臭のない、なさすぎる家。 拭い去れない違和感が、澱のように胸によどみ、暗い予感を形作ってゆく。 「センセー」 意を決してナルトは声を掛けた。 「うん?」 めくられることのなかった本から顔を上げ、カカシが首を傾げる。 「オレの部屋、見てきていい?」 一瞬、秀麗な眉が顰められたのをナルトは見た。 五日間過ごしたが、普段はリビングで、寝る時はカカシの部屋でその腕の中で眠っていたから、自分の部屋に足を踏み入れることはなかった。 「んー……」 明らかにカカシは乗り気ではない。 ナルトがやっぱりやめたと言い出すのを待っているようにも思えた。 だがナルトは引くつもりはなかった。 「ま、お前の部屋だしね」 仕方がない、という風にカカシはため息をついた。 「オレは掃除の時以外は入ってないから」 「ありがと」 巻物を置いて立ち上がる。背中にカカシの視線が突き刺さるのを感じた。 ごめんってば、とナルトは胸中で呟いた。カカシが隠したがっていることを、ナルトは知ろうとしている。カカシが自分の為だけに隠すとも思えないから、きっとナルトを傷つけるのだろう。 それでも。ナルトは部屋へ向かった。 ぎいと扉を軋ませてゆっくりと開かれた部屋は、締め切られた空気とカビの臭いがした。 ベッド、洋服箪笥。配置も何も変わっていない。 やはりこの部屋にも緑はなく、ナルトの心を沈ませた。 「お邪魔します、ってば」 未来の自分の部屋とはいえ、今のナルト、自身ではない。なんだかいけないことをしている気分になりながら、そっと足を踏み入れる。 驚いたことに、家中で見かけた埃の一つも床の隅に落ちていなかった。 カカシがまめに掃除をしてくれていたのだろうか。部屋の主は、きっとまだ帰ってこないだろうに。 しんと静まり返った空間はどこか厳かで、一歩、二歩、自然と忍ばせながら足を進める。 服がはみ出した箪笥さえもそのままで、カカシは本当に掃除以外一切手を触れていないようだった。 ベッドの向こうまでぐるりと視線をやって、はっとした。 ナルトが育てていた植物、きっと未来で増えたであろう鉢が、土も枯れた茎もそのままで丁寧に並べられていた。乾ききったそれに、カビが生えているのも見える。 ウッキー君の鉢も、その中に紛れていた。 枯らしてしまったと言っていた。仕方ない、と思った。だが、これは。 全て枯らしてしまう前に、いのに預けるなり何なりしてくれるはずだ。ナルトの知る、カカシなら。 どくり、と心臓が鳴った。 息を呑んだ。 長期任務だと言っていた。 部屋の隅、扉の陰に隠れるように置いてある鞄は、長期で任に就くとき持って行くように、とカカシが買ってくれたものだった。耐久性もよく場所を取らない割に量が入るんだよ、と言って。上忍も重用しているそれをありがたくなるとは使っていた。 七年経つというのに、くたびれたそれは膨らんでおり、中身が詰まっていることが分かる。 どくりどくり、心臓が肋骨を叩く。 「先生……?」 膨れ上がる不安。 ナルトはそっと膝をつき、鞄に手を伸ばす。 そっと開けると、忍具や携帯品、医療セットに着替えが入っている。自分が使っているものより上等になっていたが、急な任務が入ってもこれだけ引っ掴んでいけるように、ナルトが詰めていたもの、そのままだ。 一体、これは、何を意味している。 背中をぞうと悪寒が走り抜けていった。 「ナルト」 びくり、と体が跳ねた。 扉に寄りかかり、カカシが腕を組んでこちらを見ていた。 いつの間に、など愚問だろう。カカシは上忍。ナルトの遥か上を行く人。 隻眼が不自然なほど凪いで、ナルトを映している。 今になって漂う鉄錆の臭いに気付く。 ベストが濡れていて、それは血なのだと分かった。影分身ではない。本物だ。 「どうかしたの?」 穏やかな口調が、怖い。 「先生…その血」 「ああ、うん、返り血だから大丈夫だよ」 「返り血って、先生、今日は里の哨戒任務だって、言って……」 べっとりと濡らす血は、一人分の量ではない。複数のにおいが入り混じっている。 かちかちと歯が鳴った。 「嘘は言ってないよ。ちゃーんと哨戒してきました。……言ったでしょ? ごたごたしてるってさ」 「カカシ先生!」 耐え切れず叫ぶと、カカシがにこりと笑った。 「知りたいの」 「う、ん……」 「今まで、知ろうともしなかったじゃない」 「だって……知っちゃ、いけないかと……」 「だったらそのままでいればいいじゃない」 何故だ。 遠い。 これほど近くにいるのに、カカシが遠い。 「先生……、先生、ッカカシセンセェ!」 認めたくなくて、ナルトは声を張り上げる。 「そんなに呼ばなくたって聞こえてるよ? ナルト」 音もなく近づいてくる大人に体の震えが止まらない。 息が掛かるほど近づけられた顔が、ひたすらに笑う。 「そんなに震えてさ。寒かった?」 「センセ……ッ」 縋るように見上げた先、にこやかな顔があって。 ナルトの怯えに気付いているだろうに、その笑みは崩れない。 視線が、合わない。 深い暗い闇を覗き込んでいるように、思える。 「ナルト、────ナァルト」 伸びてくる腕は絡みつく蔦のごとく、ナルトの体を締め上げて。 「そんなに知りたいなら教えてあげる」 ゆっくりと紡がれる言葉はひたすらに穏やかで柔らかいのに、どうして震えがひどくなる。 「今はね?」 訊くことを望んだのは、知ることを選択したのは確かに自分なのに、この瞬間ナルトは耳をふさいでしまいたいと思った。 戒められた腕は、動かすことも叶わない。 「第四次忍界対戦の真っ最中、なんだよ。ナァルト」 耳朶に注ぎ込まれた事実に、捕まった、と思った。 [ text.htm ] |